2017-10

ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯  その1 - 2008.11.30 Sun

「ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 」 
(1982/モニカ・スターリング/(訳)上村 達雄 )


4582659012.jpg


先に <ルードウィヒ> を観て以来、ヴィスコンティ熱今だ冷めやらず読んでみた。

タイトルの下にあるのは、ヴィスコンティ家の紋章で、四つ折りになった竜にかつての敵であったサラセン人が飲み込まれている図。
尚、この紋章は アルファロメオのマークにもなっている。(左はミラノ市の紋章)

alfamark.jpg

このマークの原型は、スフォルツェスコ城(ミケランジェロの未完の遺作 「ロンダニーニのピエタ」 があるとこね) の壁に掲げられている。



ルキーノ・ヴィスコンティは、1906年11月2日、モドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティの第四子、三番目の息子としてミラノの大邸宅(四十四番地)で生まれた。
数世紀に渡りミラノ公国を支配した家系。

viscontifam01.jpg
前列真ん中がルキーノ(5歳)→クリックで拡大可

この本では、ミラノとヴィスコンティ家の関係がよく書かれていて、へぇ~ の連続であった。
たとえば、ミラノの大聖堂は、ミラノ公ジャン・ガレアッツオ・ヴィスコンティが建立に着手したもので、カンドリアの ”自分の持ち山” から運ばせた大理石を寄進した。
へぇ~へぇ~ 

ミラノ・スカラ座は、14世紀の教会 聖マリア・デ・ラ・スカラの跡地に建てられたもので、この教会堂は、ジャン・ガレアッツオの甥 ベルナルボが 妻 レジーナ・デ・ラ・スカラの為に建立したものだった。
へぇ~へぇ~ そうか、だからスカラ座っていうのか

祖父 グイド・ヴィスコンティは、スカラ座の支援者で、トスカニーニを音楽監督に任じた人でもあった。一家はトスカニーニと家族ぐるみのつき合いをした。

かつてスカラ座には定期予約席があり、これは彼らの私的財産であり、ヴィスコンティ家は、オーケストラボックスのすぐ上、第一列左から4番目の予約席であった。
ルキノは幼い頃からそこへ連れて行かれたので、「スカラ座に育てられたようなもの」 と言っている。

→高校時代、西洋史の教科書にミラノに建つヴィスコンティ公の銅像の写真が載っていて、「ヴィスコンティ、すげー」 とはあはあした。
ミラノにはヴィスコンティ通りがあり、これまた はあはあしたのだった。

父 ジュゼッペは凛々しいハンサムで、母 カルロ・エルバは美しい。 ルキーノはママにそっくり。
母方の祖父は音楽家で、ヴィスコンティ家にとって 「芸術は人生の一部」 であった。
以前観たヴィスコンティのドキュメンタリでは、屋敷に 劇場 があった。
家に劇場!! またまた、「ヴィスコンティ、すげー」 であった。

今回この本を読み、あの才能と資質は一朝一夕に作られたものではないのだな、ということがつくづくわかった。

viscontibook.jpg
ルキーノ (十歳) 


以上のようなルキノの出自を書いた第2章<彼こそは本物の貴族だ――スカラ座で育ったミラノの領主の末裔> から、駆け足で彼の人生を追い、後半は主な監督作品についてそれぞれ章を割いている。
これが貴重なエピソードてんこ盛りで、解説もあり、ちょっとしたパンフレットを見ているようである。
けっこうなボリュームの本書だが、葬式のシーンの第1章から最期の29章までの構成も良く読み易い。

この本を書いた モニカ・スターリングはイギリス生まれ。早くからフランスに渡り、小説家及びドキュメンタリの手法を駆使した伝記作家。
この ”外国人の目から見た視点” というのが又いいのかも知れない。


以下その後半の映画作品についてのエピソードなどを覚書を兼ねて記しておきたい。(長いです)

*23章 少年愛は死への憧憬か――マンとマーラーと<ベニスに死す>
―アッシェンバッハのタジオに対する感情がこの小説の中心テーマであってみれば、この映画の観客がこのテーマを曲解するのは不幸なことである。
<ベニスに死す>は断じて「ホモセクシュアル」物語ではないし、マンにしてもヴィスコンティにしても、個人的な性の好みに世間がはやし立てるかのようにレッテルを貼っている事態は理解できなかったであろう。


morteavenezia1.jpg
一番手前が、ノラ・リッチ(家庭教師)
ブログ <ルートヴィヒ>で記述した女優 


おもしろいエピソードがある。
実はこれにはモデルがいて、ベニス・リド島のオテル・デ・バンで、トーマス・マン自身が実際に見かけたポーランド少年がいたのである。
この少年について64年経ってから未亡人のカーチャ・マンは、「きわめて美しく、匂い立つような少年」で、そういう存在に夫は 「目がなかった」 と書いている。

この話にはこの後まだ続きがある。
マンの死後十年ほどして、娘のエリカはある高齢のポーランド貴族から手紙を受け取る。
その手紙によれば、最近友人から勧められた本を読んでみると、その中に彼自身と家族全員が細かに描写されていた。タジオという名前も、彼のこどもの頃の呼び名「ウラジオ」とよく似ている。彼はこの偶然を面白がっていたという。
尚、トーマス・マンが言うには、小説に出て来るエピソードやモチーフは全て彼自身がヴェニスで体験したことだという。

映画の中で、ホールのグランドピアノをタジオが弾くシーンがある。
これが 「エリーゼのために」 なのだが、これは、ヴィスコンティがビヨルン・アンドレセンをピアノに向かわせて、何か弾いてごらんと言った時に、少年が自分で選んだ曲だった。
→言われてみると、このシーンが目に浮かぶ。”あまだれのような”「エリーゼのために」が、かえって印象に残る。

venicepiano.jpg


*24章 私は謎、謎のままでいたい――ワグナーと<ルードウィヒ>の夜
<ベニスに死す> が完成した時、プルーストの <失われた時を求めて> の映画化という ”夢”が実現するかと思われた。
ファンにはこの ”夢” はよく知られたものである。
しかし、資金のめどが立たず、ひとまず <ルードウィヒ> を撮ることに決めた。
この時、プルースト作品が優先されたなら、<ルードウィヒ> は完成しなかったかも知れない。

ヴィスコンティの完成しなかった企画の内、今日最大の損失と思われるものは、このプルースト作品とルドルフ・ヌレエフ主役として作る予定だった<ニジンスキー>である。
→そんな企画があったのか!? 見たかったなあ、ヌレエフのニジンスキー。

<ルードウィヒ> もやはり資金難に見舞われる。
この時、イタリア経済が最悪の状況であったという時代背景も今回わかった。
しかし、撮影には、ヴィステルスバッハ家とバイエルン当局の双方が援助を申し出て、家宝の貸与と州の財産となっているルードウィヒの城内での撮影を許可してくれた。
この話を聞き合点がいった。
オープニング、あの戴冠式の華やかで重厚な空気はこうした 「本物」 によるものであったのか。
これとて、ヴィスコンティが撮るならば協力を惜しまないということなんだろうな。 

bfi-00m-mji.jpg


そしてこの撮影終了直後、ヴィスコンティは倒れる。脳卒中。
極寒の地での撮影は過酷であり、経済的トラブルという心労もこたえた。

この後、編集や録音の作業をしなければ映画は完成しない。左半身がマヒして動かない。
チューリヒの名医の下でリハビリに励むヴィスコンティ。
「元気になってこの作品を完成させたいという一念だった」と本人のコメント。
こういう人ってすごいバイタリティがあるのだな。
やっぱりパワフルじゃないと芸術作品は生まれないよね。

医師も驚く回復力でヴィスコンティは仕事に復帰する。倒れてから2カ月のことだった。
この時文字通り死にかかったわけだから、この作品が 「ヴィスコンティの遺言」 といわれるのがよく分かった。
→評論家 ジャンニ・ロンドリーノは、「ヴィスコンティはこの作品で精も根も使い果たしたので、後の2作は付け足しに過ぎない。よって、これが実質的な遺作である」 と言いきっている。


*ルートヴィヒの終幕部分について

ルートヴィヒの死因について、彼が医師を絞め殺して自殺したとか、心臓麻痺を起したという諸説が喧伝されていたにも拘わらず、ヴィスコンティはルートヴィヒが殺されたと確信していた。
死の直後には、その上着に銃弾の穴があったが、湖から死体が引き揚げられるとすぐ引き剥がされて持ち去られたという説があった。
ヴィスコンティはこれを支持したようで、老いた従僕がその上着を目撃したというカットを撮っていたが、編集段階で多くがカットされた。
ヴィスコンティは、これが事実だという描き方をしない事にしたのである。その結果、曖昧な描き方で終わっているのだ。(26章)
→この銃弾の穴があったという説は初耳で、へぇ~という気持ちだった。

visconticastle.jpg
ノイシュヴァンシュタイン城のルキーノ

《 その2 》 へ続く ――


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